INTERVIEW

看護師インタビュー

看護師になってよかったそう思える人を育てたい

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医療法人 相雲会 小野田病院 外来師長

松島ひろみさん

マツシマ ヒロミ

Profile

1965年、千葉県生まれ。幼少時に父の郷里・原町区に家族で移り住む。高校卒業後、小野田病院に入職し、働きながら准看護師の資格を取得。2002年から休職し岩手県の水沢学苑看護専門学校で学び正看護師に。2005年に復職。病棟勤務時は、がん緩和ケアに積極的に取り組んでいた。

  • 師長として「楽しく、真剣に」看護に取り組む

    外来師長になって4年目です。師長になるのは初めてのことで、病棟の勤務が長く、外来で師長になるのは抵抗があったのですが、すぐに「場所は関係ないな」と思うようになりました。

    患者さんと関わる時間が短くても、信頼関係は一瞬で結べるし、逆に失うのも一瞬です。その時々に私にできる看護を精一杯、患者さんに提供するということには変わりはありません。患者さんに「あの看護師さんに会うと心が和む」と思ってもらえるように、毎日の出会いを大切にしながら「楽しく真剣に」をモットーに、患者さんに癒しを届けられるように仕事をしています。

    「楽しく」だけではなく、人の命を預かる看護は「真剣に」仕事するのは当然のことです。採血や注射、看護記録、そして椅子や机を拭く環境整備まで、すべての仕事が人の命にかかわっていることが分かれば、看護師は納得して真剣に取り組むことができるはずです。職場では、一つひとつの仕事に根拠があることを理解してもらえるように丁寧にみんなに伝えるようにしています。

    師長になると新人や学生の教育に関わる機会が増えるのですが、育てることが意外なほど楽しくて驚きました。ずっと「私は人に教えるのは向いていない」と思い込んでいたのです。これからさらに若い世代の教育指導に力を入れて、多少なりとも看護師不足の解消につなげたいと思います。

  • ビリから二番目だった学生が本気を出すまで

    私が看護師になったのは「進路指導の先生に勧められたから」で、与えられたレールに乗っただけです。働きながら准看護学校で資格を取得し、その後は同級生の多くが正看護師になるべく進学しましたが、仕事に興味がもてなかった私は准看護師のまま、なんとなく20代を過ごしました。そんなある日、進路指導の先生が入院してきたのです。先生は腎臓が悪く以前から闘病していました。しばらくして私が看取ることになったのですが、最期に「あなたに看てもらえてよかった」と声をかけてくれたことから、「もっと看護の勉強したい」と気持ちが切り替わりました。

    実際に行動したのは30代になってからで、休職して県外の学校に通い、正看護師の資格を取得しました。卒業式では成績優秀者として答辞を述べることになり、准看護学校時代には「ビリから2番目」の成績証明書を知っていた先生たちにはとても驚かれました。当時、すでに結婚もしていたので進学は相当な覚悟が必要でしたが、必死に勉強して「私にも、やればできる」と思えるようになったのは大きな収穫でした。また、小野田病院を離れていた時に、当時の看護部長から「再び一緒に働ける日を待っています」と丁寧な手紙をもらったことも励みになりました。

    私は、先生にも職場にも恵まれました。今では「看護師になって本当によかった」と思っています。きっかけは何でもいい。最初に大きな理想を抱くより、その都度見つけた目標を実現していく方が長続きするし、勉強が嫌いでも看護のセンスがある人もいるのです。もし、私が看護の道に進むことを迷っている人に声をかけるとすれば、「まず、やってみよう!」という言葉です。

取材者の感想

松島さんが一番「看護師になってよかった」と感じたのは、3年前にお父様を看取った時だそうです。肺がんを患っていたお父様に、これまでずっと勉強してきた「がん緩和ケア」の知識を駆使。最期まで「本人らしさ」を尊重した看護を行い、亡くなった後には家族と一緒にエンゼルケアをすることで「おだかやかな気持ちで死を受け入れることができた」と話してくれました。「患者さんのこれまでの人生を否定しない。病気になっても最期まで、その人らしさを大切にする」看護と看取りを、お父様は家族の立場からも経験させてくれたのです。

お話を聞いていて感じたのは、松島さんを大きく成長させてくれたのは、人生の節目節目にあった「出会いと別れ」ということ。相手を尊重し、誠実に向き合うことで、人は様々な経験を糧にできるのだと改めて思いました。

ライター 齋藤真弓
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