INTERVIEW

看護師インタビュー

安定して継続した医療を地域に届けていくために

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南相馬市立総合病院 看護部長心得

小野田 克子さん

オノダ カツコ

Profile

1969年南相馬市生まれ。山形病院附属看護学校を卒業後、福島県立総合衛生学院で保健師の資格を取得し、1991年に自治医科大学附属病院に。翌1992年より原町市立総合病院(現・南相馬市立総合病院)に入職し現在に至る。循環器外来を皮切りに脳外科、整形など病棟も含め多くの診療科を経験し、2009年に外来師長。2015年以降は看護副部長を務め地域連携に関わってきた。

  • 地域医療の未来図をイメージしながら

    前任の五十嵐里香部長からバトンを引き継いで、この4月より看護部長心得を務めています。私は、患者さんに寄り添い「その人らしく」過ごしていく意思決定を支援できる看護師を育てたいと思っています。2017年2月からの2年間は市立小高病院にいて、福祉や介護に関わる人たちと連携しながら、小高区内の地域包括ケアシステムを作ろうと模索しました。その取り組みの一つが、オンライン診療です。2016年7月に避難指示が解除された小高区に帰還した住民の過半数が高齢者であり、「最期はふるさとで過ごしたい」と覚悟を決めている人たちばかりでした。

    高齢の方がタブレットを使うのは難しいだろうということで、私たち看護師が訪問し操作して医師につなぐことにしました。患者さんは当初新しい取り組みに抵抗感があったようですが、「これは今後は全国的に使われていくはずだから、試してもらえませんか?」と伝えると、「後の人の役に立つことができるのなら」と積極的に協力してくれました。信頼関係のある医師による訪問診察の補完だったこともあり、画面越しに医師の顔が見えると、どの患者さんもぱあっと笑顔になるのです。看護師が患者さんに寄り添うことでスムーズな診察が可能なことも実感しました。

    これから20年後、私たちが高齢者になった時には普通にタブレットを使いこなせるようになっているでしょう。今、高齢化の進んだ地域で実践していく医療は、私たちが高齢者になった時にどんな未来になっていたらいいのかというイメージにつなげていく取り組みでもあるのです。

  • 「最後の砦」となる公的医療機関の役割

    このような新しい取り組みはもちろん必要ですが、市立病院の最大の役割は「安定して継続した医療を提供すること」だと私は考えています。原発事故の後も当院の救急外来は1日も閉めませんでした。当時、外来師長だった私は自分の意志で病院に残りました。情報が全く届かなかったこともあって「自分は死ぬかもしれないし、もう家族に会えないかも知れない」という覚悟をしましたが、そういう思いをスタッフにさせたくはないと思っています。震災と原発事故を経験した私たちは、「最後の砦」となる公的医療機関の役割を意識しながら、有事の際に最善となりうるルールを決めておかなければならないし、次の世代にそれを伝えていく必要があるはずです。

    一方で「(避難するかどうか)自分で決めなさい」と言われたがゆえに、避難することを決めた人の方が後ろめたさから心に傷を負っていることも分かってきました。当時、病院に残ったスタッフは「いつでも避難した人が戻ってこれるように病院を守ろう」と話していたのですが、子どもの進学などで多くの看護職が病院を離れてしまいました。そういった元同僚のためにも、この病院がさまざまな形で活躍している様子を発信していくことができれば、看護職の一人として、「私はあの病院で働いていたんですよ」と他の地域にいても胸を張って言えると思います。

    あわせて、「ここで働いていてよかった」と思える職場づくりに取り組みたいと思っています。もし新人時代を市立病院で過ごし市内の病院に移ったとしても、ここでの経験を活かして地域医療に貢献してくれる人材になってくれればいいのです。私の力で、どこまでやれるのかは分かりませんが、どうすれば私がこれまで支えられてきた地域への恩返しができるのかを考えています。

取材者の感想

看護師は、「役割を果たすことで、自分自身が励まされる仕事」と小野田さんは言います。患者さんから「ありがとう」といわれたり、「顔を見たら安心した」と言われると「元気になってまた前に進むことができる」そうです。「誰かの評価がほしいというよりも、これは究極の自己満足なんですよ」と笑う小野田さん。仕事をする上での判断基準は「患者さん中心かどうか」で、スタッフが休みを取るときも、業務に支障がなければ基本的に理由は問わないとか。その人らしく生きること、自己決定の大切さを繰り返し、ぶれない軸のある「小野田イズム」がどんな未来を作っていくのか注目していきたいと思いました。

ライター 齋藤真弓
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