看護師として前に進む自信を育んでいきたい
30
医療法人 伸裕会 渡辺病院 看護部マネージャー
伏見 優子さん
フシミ ユウコ
Profile
1972年南相馬市原町区生まれ。茨城県の短大を卒業後、渡辺病院の奨学生として岩手県にある高等看護専門学校に進学。看護師取得後1996年から渡辺病院に勤務。現在は看護部マネージャーとして整形外科病棟に勤務し、退院後の生活に配慮した看護を行っている。退院後、外来に来た元入院患者さんが「元気にやってます」と声をかけてくれるのが何よりうれしいと言う。
-
病院事務の試験を受けにきたはずが・・・
短大在学中、就職活動で当院の事務職の面接を受けましたが、当時の事務長から「よかったら看護師になりませんか」と奨学生を勧められました。もとより「仕事を通じて何か人の役に立ちたい」という気持ちが強くあったので、看護師になることにさほど迷いはありませんでした。両親に相談すると「いい職業だと思うよ」と背中を押してくれました。看護専門学校を卒業して、すぐ看護師として働き始めて23年になります。ちょうど人生の半分は看護師をしてきました。
渡辺病院は、2011年時点で原町区にありました。東日本大震災とその後の原発事故で入院患者さんと職員が避難し、病院は一時閉鎖しました。私は避難指示が出た小高区に住んでいたので、家族みんなと二本松市に避難しましたが、病院が再開することになり一人戻ってきました。
二人の子どもと一緒にいたいという、母親としての葛藤もありました。それでも、「なんとか病院を立て直したい」という強い思いがありましたし、すでに病棟師長だったので途中の状態で仕事を投げ出したくはなかったのです。幸い、以前から義父母が子育ては全面的に協力してくれていて、その日常に子どもたちも慣れていました。そこで、平日は原町区の私の実家から病院に通い、子どもたちが休みの土日曜日に合わせて二本松市に帰る生活を昨年の4月まで続けていました。思い切り仕事に力を注ぐことができたのは、義父母のおかげだと今は感謝しかありません。
-
長く続けられる協力体制と声掛けの大切さ
渡辺病院が新地町で再スタートして5年になります。その間に成長した子どもたちは進学で福島を離れました。今は必要があれば私も夜勤に入り、日中の師長業務は二人の主任にお願いしています。ここのところ相双地域は急に核家族化が進み、子育て中に頼れる家族がいないスタッフが増えています。例えば、夜勤専従が可能なスタッフに協力をお願いしながら、日勤のみなら働けるスタッフとシフトを調整しながら、お互いの負担が偏らない協力体制ができないだろうかと試行錯誤しています。ライフステージでできることが変わるので、お互い様の気持ちが大事です。
また、当院は、中途採用の看護職を積極的に採用しています。なんらかの事情で「看護に自信をなくしてしまった人」であっても、一緒に働くことで、改めて自信をもって働いてもらえるようにしたい。新人さんが「忙しい先輩職員に声をかけたら怒られるのではないか」とためらわないように、戸惑った様子でいるようだったら、こちらから声をかけるようにすることだったり、先に「何度聞いてもいいから、また分からない時は聞いてね」と伝えて安心してもらうなど、新しく入った人の目線に立った声かけを欠かさないようにしようと中堅クラスの職員に声をかけるようにしています。
私が新人だった頃の「先輩を見て仕事を覚えて」という指導は、通用しません。せっかく渡辺病院を選んで来てくれたのだったら「一緒にいい看護をしていけるように」、看護職を大切に育てていきたいと思っています。そうすることで、当院でのよりよい看護の提供が可能になるはずです。
取材者の感想
「私自身の新人教育に関する考え方は10年前とがらりと変わりました」と話す伏見さんは、20歳と19歳の子どもがいるお母さん。「自分の子が、実際に社会に出た時にどこまで出来るのだろうか?」という心配な気持ちを踏まえるうち、若い世代に対する接し方が変わってきたそうです。今後は、震災前に受け入れていた「看護学生の実習も復活させたい」と人材育成に意欲的な伏見さん。「学生の質問に答えるために職員みんなも勉強するので、良い刺激になるのです」と教えてくれました。その口ぶりからは、人を育てる仕事の大切さとやりがいも感じられて、改めて看護師とはあらゆる経験が生きる仕事なのだと思いました。
ライター 齋藤真弓