心機一転、再スタート一緒によりよい看護を
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医療法人 伸裕会 渡辺病院
元村 一成さん
モトムラ イッセイ
Profile
1979年千葉県富津市生まれ。高校卒業後、自動車関連などの仕事を経て24歳で看護助手に。手術室勤務のかたわら看護専門学校に通い、28歳で看護師資格を取得した。その後、千葉県内の病院で5年間ICUに勤務。現在は、新地町の『渡辺病院』で整形外科病棟の看護主任を務めている。
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「一緒にこの病院を盛り上げていきたい」
『渡辺病院』のある新地町は妻の故郷です。東日本大震災後「両親が心配」と東北に戻った妻と一緒に暮らすために、私も千葉の病院を辞めてこちらにきました。正直言って、前の職場を辞めたくはありませんでした。ICUに勤務して5年、経験を重ねて出来ることがどんどん増え、仕事が面白くなってきたところでした。「他の病院で働く経験は、きっと勉強になる」と自分に言い聞かせながら、苦渋の決断をしたのです。その後、仙台市の病院で働いていた2014年に、義父から「新地町に渡辺病院が来る」と教えられました。南相馬市から新築移転したばかりの渡辺病院は、最新の医療設備が導入されているということだったので、気軽に見学を申し込みました。最初は、本当に「見学だけ」のつもりだったのです。ところが、帰る頃には「この病院を一緒に盛り上げていきたい」という気持ちに変わっていました。「千葉の病院と同じ電子カルテが導入されている」ことなど理由はいくつかありますが、一番印象的だったのが「職員のあいさつ」でした。仕事中のスタッフが、見学者の私だけでなく誰に対してもきちんと顔を見て声をかけていたのです。新しい場所で再スタートする病院を「よりよい病院にしよう」と、職員みんなが同じ方向を向いているように感じて、自分も参加することで力になりたいと思ったのです。看護部長からは「いずれ救急をやりたい」という話があり、ICUでの経験が生かせるかもしれないとも思いました。
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風通しのよい人間関係で働きやすい職場に
新地町に移転するまでの3年間、外来診療のみ行っていた『渡辺病院』の病棟は時の流れが止まっているようなところがありました。もちろん、その間にも医療は変化し続けています。私が病院に入ってからは、知っていることを積極的に提案させてもらいました。この病院の良いところは、「よいものは何でも試してみよう」と柔軟に取り入れる雰囲気です。他の病院から来た看護職にも「どんな風にやっていた?」と声をかけて意見を出し合い、あらゆる業務を進めてきました。もし、問題や課題が出てきた場合には、きちんと評価して改善していこうとする意識も職員に浸透しています。遠慮せずに提案して、実際に採用してもらえる風通しのよい人間関係は「働きやすい職場」の実現にもつながっています。新卒・既卒含めて順調に看護スタッフが増えて、2017年12月には人手不足で開けられなかった病棟を一つ稼動できるようにまでなりました。
私自身、病棟の主任になったことで看護観が変わってきました。これまでは「看護師として自分になにができるか」という視点でしたが、今は「患者さんのためになにができるか」をまず考えるようになりました。入院している患者さんにとって、看護職は環境の一部。患者さんと医師の周りを支えるのが看護職です。看護職が裏方の仕事を確実にこなすことで、患者さんが治療に専念できたり、スムーズに家に帰れるようになります。より広い視野をもつことを意識しながら、これからも職場のみんなと一緒に、よりよい看護を実現していきたいと思います。(写真:整形外科病棟スタッフと)
取材者の感想
当初、介護福祉士を目指していたという元村さん。「せっかく取ったホームヘルパー2級の資格を生かそうと就職活動した時、ようやく採用されたのが病院だった」のが、看護の道を歩み始めたきっかけだったとか。病院で介護職をするつもりが配属されたのは手術室。「患者さんと直接関われない上、医師と看護師の医療用語が理解できない自分がくやしくて、働きながら看護学校に通い始めました」。その時、元村さんは24歳。「中学、高校とちゃんと勉強してこなかったから、一生に一回くらい必死に勉強をしよう」と覚悟を決めて入学したところ、病院の仕事とシンクロする学校の座学は納得できる部分が多く「どんどん知識が頭に入っていった」と言います。
今年で看護師になって10年。「やっぱり大変な仕事だけれども、ここまで続けてくることができたのは、患者さんの快復に感動したり、自分が成長できたと感じられる瞬間があるからですね」。元村さんの飾らない言葉の中に、看護職の魅力が凝縮されているような気がしました。
ライター 齋藤真弓