INTERVIEW

看護師インタビュー

患者さんに寄り添える看護を、この高野病院で

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医療法人社団 養高会 高野病院 看護部 介護部 統括心得

井上 幸子さん

イノウエ サチコ

Profile

1951年、宮城県角田市生まれ。宮城県高等看護学校を卒業後、神奈川県の病院に就職。結婚退職し福島市に。8年間の専業主婦生活の後、パートで看護師に復帰。その後、個人病院に15年、福島第一病院に18年勤務した。三人の子どもが成人した現在、単身赴任で広野町に在住。

  • 双葉郡で唯一、入院診療を継続している民間病院

    福島第一原子力発電所から22キロ南にある高野病院は、地域医療を守るために東日本大震災後も入院診療を継続してきた双葉郡唯一の民間病院です。現在も精神科・神経内科・内科・消化器内科の診療を行い、精神科療養病棟と内科療養病棟合わせて118床に45名の看護師が働いています。

    震災直後から看護師不足による病院の窮状を事務長がテレビや新聞などで発信してきたこともあり、多く看護師が全国から応援に駆けつけてくれました。北は北海道から南は九州まで、その数は5年間で延べ50人以上にのぼります。

    おかげで看護師数は基準を満せるようになりましたが、継続的な確保は難しく、決して余裕はありません。応援の看護師は期限がくれば地元に戻ってしまいますし、子育てとの両立のためにパートタイムで勤務している看護師もいます。スタッフ一同が協力しあうことでバランスを保っていますが、やはり将来的なことを考えると、地元に根付いて病院をリードしてくれる若い人材に来てもらいたいと切望しています。

    実は私も今年4月に来たばかりです。去年参加した研修会で当院の事務長の話を聞き、「いまだに浜通りの看護師不足は深刻」だと知りました。ちょうど前職が3月で雇用契約満了で後任もいたので、思い切って事務長に「私にできることはありませんか?」と申し出たのです。震災当時は、勤務先や家庭での役割があり浜通りに駆けつけることができずに、もどかしい気持ちでいました。「今もできることがある」なら、ぜひやらせてもらおうと思いました。

    精神科はまったく未経験だったのですが、幸い身体は健康です。「まだ、もうちょっといけるかな」と65歳での再スタートを切りました。

  • 「ささやかな幸せ」や「楽しみ」を見いだしながら

    広野町は温暖な気候で、海と山に囲まれた自然いっぱいのところです。病棟の窓からは太平洋が見えます。

    患者さんは症状が安定した方が多く、落ち着いた対応ができる病院です。急性期病院のように生死にかかわる対応はほとんどなく、時々静かな看取りがあります。圧倒的に高齢の患者さんが多いこともあり、「もう、この病院で私は終わるしかないからね」というような悲観的な言葉が出てくることもあります。そんな時には、ゆったりと寄り添って患者さんの「ささやかな幸せ」や「楽しみ」を一緒に見いだしていくようにしています。

    以前は急性期の病院にいましたので、回復していく患者さんを目の当たりにできる喜びがありました。それぞれの病院に特長があって「看護のあり方」が違うのは当然のことですが、患者さんに「寄り添う」という基本は一緒です。「患者さんを中心とした看護」を貫いていくことは、どこに行っても変わらないものだと思います。

    私が看護師を目指すきっかけは中学生の時に友だちを亡くしたことでした。なかなかお見舞いにいくこともできず文通をしていたのですが、友だちから届く手紙には「病気に対する不安」など、医療関係者に打ち明けられない心の内が綴られていました。「病気の人の心に寄り添いたい」という気持ちを出発点に、ここまで来ました。

    私の看護師生活はこの高野病院が最後の職場になると思います。患者さんの言葉を良く聞いてしっかり向き合えるこの病院で、本当にやりたかったことをやりきって、看護師生活を締めくくりたいと思っています。

取材者の感想

井上さんは学卒後に就職した病院は2年ほどで結婚退職していますが、専業主婦をしていた間も「看護師として中途半端に幕を引いてしまった」と、くすぶった思いがあったそうです。そこで8年後、子どもが小学校に入学したタイミングで仕事に復帰。「ようやくペースをつかみ始めた頃に、3人目の子どもを授かって。ここでまた辞めてしまったら、もう二度と復帰できないような気がしたので、覚悟を決めて働き続けることにしました」。

これまでを振り返ると「一番大変だったのは子育ての時期」と話します。後輩看護師から仕事と家庭の両立について相談され「もう少し、がんばれば落ち着くと思うよ」とアドバイスすることも多かったそうです。

しかし、看護師を辞めるべきか悩んでいる人を引き止めたりしないのがモットー。「誰かの名言に『ひとつのドアが閉まるとき、別のドアが開く』というのがあります。ドアが閉まった時はがっがりするけれども、次のドアを開けば、そこから新たな道が伸びているんですよね」。

井上さん自身の人生もその通りだったそう。「15年ほど働いた個人病院は先生が体調を崩して閉院しましたが、その後に働いた総合病院でもたくさんのことを吸収することができました」。次のドアの先にあったのが高野病院。ここで多くの人から頼りにされながら働く井上さんの凛とした姿は、年齢よりも若々しい印象で、輝きに満ちていました。

ライター 
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