INTERVIEW

看護師インタビュー

地域医療の担い手としてふるさとの病院で働く

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医療法人社団 青空会 大町病院

宮川 愛菜さん

みやかわ あいな

Profile

1999年南相馬市原町区生まれ。東日本大震災により小学校高学年から中学校まで避難生活を送り、高校入学時に南相馬市に戻る。原町高校から相馬看護専門学校に進学、2021年に大町病院に入職した。

  • 東日本大震災をきっかけに看護師を目指す

    4月に入職して病棟で働いています。内科や整形外科など様々な科の患者さんがいる混合病棟のため、観察項目が多岐にわたっていて、常に緊張感があり勉強の毎日です。正直なところ大変ではありますが、先輩たちに助けられて少しずつ任せてもらえる仕事が増え、この秋から夜勤にも入るようになりました。患者さんに「ありがとう」と言われたり、無事に退院できた時にはうれしくなり、「看護師になってよかった」と思います。

    私が看護師を目指すようになったのは小学校5年生の頃です。我が家は母が看護師をしていて帰宅が遅くなったり、急な呼び出しで行ってしまうこともあり、小さい頃は寂しくて「私は絶対に看護師にはならない」と決めていました。心境が変化したきっかけは、東日本大震災とその後の原子力災害。この先、再びいつ起こるか分からない非常事態の時に「自分が人を助けられる存在になりたい」と思いました。また、避難先で浜通りの看護師不足が報道されているのを見て「地元で看護師になろう」と決め、高校卒業後に相馬看護専門学校に進学しました。母は子どもの進路については何も言いませんでしたが、今は弟も医療の専門職を目指して学校に通っています。

  • 多くの人たちに支えられて踏み出した第一歩

    勉強の厳しさは覚悟していたものの、途中で何度か「私には向いていないかもしれない」と挫折しそうになることがありました。最大のピークが病院実習です。記録には「この患者さんにどんなケアが必要か」「どうすれば悪化を防げるのか」などを記入するのですが、私は納得できる内容が書けませんでした。悩みに悩んでも学校を辞めずなんとか卒業できたのは、先生の手厚い指導と友達からの励ましがあったからです。特に、共感して寄り添ってくれた友達にはとても感謝しています。また、南相馬市の「看護師等修学資金貸与事業」で奨学金を借りることができたことも励みになりました。あまり要領が良くない私は、アルバイトと学業の両立は不可能だったと思います。金銭的な心配をせずに学校に通うことができるのは本当にありがたいことでした。

    今は、患者さんと向き合う時間が増えて、清潔の援助やたんの吸引など「どんなケアが必要か」が見えるようになってきました。実習期間にはできなかったことが、病院の現場では先輩たちのおかげでゆっくりできるようになってきています。地域の人たちに支えられ、ここまできたので、これからは私が地域の医療のために役に立って、恩返しをしていきたいと思っています。

取材者の感想

「今年はフロアに入った新人が一人なので、先輩たちに手厚くフォローしてもらっています」と宮川さん。「まだまだできないことが多くて迷惑をかけてばかり」と話しますが、迷ったり悩んだ経験は、これから宮川さんが看護師として成長するための糧になるはず。相馬看護専門学校の先生が以前の取材で「悩んでいた学生ほど就職後に大きく成長する」と話していたことを思い出し、心の中でエールを送りました。

ライター 齋藤真弓
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