大きく変化し続ける医療の現場で思うこと
26
医療法人 相雲会 小野田病院 副看護部長
岡田 真紀子さん
オカダ マキコ
Profile
1963年、南相馬市原町区生まれ。高校卒業後、小野田病院に入職し、働きながら看護師の資格を取得。東日本大震災直後は一時的に家族で避難したが、ほどなく南相馬市に戻り、病棟再開と共に仕事復帰した。震災発生時に中学生と小学生だった子供たちは、現在二人とも成人している。
-
病院を次の世代につなぐ土台づくり
一般病棟の看護を担当しながら副看護部長をしています。18歳で入職して、ずっと当院で働いてきました。私たちが新人だった頃は「仕事は見て覚えるもの」と先輩に指導されましたが、現在の新人教育で、そんなことは一切通用しません。東日本大震災をきっかけに、当院は子育て中の看護職が数多く離職し、中堅世代が少なくなってしまいました。20代の若い世代に、これまで先輩たちが築いてきた『小野田病院』をつないでいくのは差し迫った私たち世代の役目です。具体的には、一般病棟で仕事をする上での「手順書」をまとめようとしています。
ものすごい勢いで時代は変化しています。私はよく電話に例えるのですが「固定電話からスマートフォンへ変わっていった」ように、医療現場も大きく変化しています。電子カルテになったり、ME(医療工学)機器が発達したり。それでも患者さんと直接関わるのは、私たち看護師です。次の世代の人たちが作る当院は今までと違ってくるはずですが、一人ひとりが「看護師として何ができるのか」を考え続けてほしい。その土台づくりを今、少しでもできればいいなと思います。
-
患者さんとその家族の話に耳を傾けながら
若い頃、私は救急で看護スタッフを引っ張っていける人になりたいと思っていました。外科の仕事が好きで、ともかく「患者さんを治して家に帰す」ことにやりがいを感じていたのです。生活の最優先は仕事。現在、23歳になった娘から「本当に家にいないお母さんだったね」と言われます。でも、義母が二人の子どもを育ててくれたので、安心して仕事に専念することができました。
30代以降、相次いで実両親と義両親を亡くし、40歳を過ぎると少しずつ考えが変わってきました。人の支えがないと仕事はできないし、家族の力がないと仕事は続けていけないと、本当に身にしみたからです。実父と義母は同時期にがんの闘病をしていたので、職場に配慮してもらって仕事を続けました。実父については「あれががんの危険信号だったんだろうな」という症状に気づいてあげられなかったので、亡くなった時は自分が情けなくて1ヵ月ほど仕事復帰できませんでした。
少し落ち着いて職場に戻ってからは、患者さんの話を聞いたり、家族に対する思いやりを意識して看護にあたるようになりました。人手不足の医療現場で現実的には難しい部分もあります。それでも私は、患者さんと家族の話を「一言でも聴ける」看護師でありたい。それは看護の環境がどんなに変化しても、忘れず心に留めていかなければならないことだと思っています。
取材者の感想
「実は人を育てるのは苦手」と打ち明ける岡田さん。「自分で動いた方がラクなので、今も現場で自分で動く方が好き」なのだそう。病院から役職者のオファーがある度に「もし断ったら病院を辞めなくちゃならないかな」と夫に相談していたと話します。「毎回、夫は『仕事辞めてどうするの?あなたがずっと家にいるのはムリだよ』と同じことを言いました。副部長になるときは、『そういう役割を担う年齢なんだから諦めなさいよ』と諭されて、妙に納得してしまいました」。
誰かにアドバイスされたとしても、最終的に決めるのは自分。これは、父親に勧められて看護の道に進んだ18歳の頃から変わらない岡田さんの姿勢です。「いろんな選択肢の中から自分で選んできたからこそ今がある。振り返ってみると、ここに留まって看護職をしているのも自分で決断してきた結果なんだと思います」。インタビューを終えて新人看護職と談笑する岡田さんの姿からは、常に自分と向き合い妥協せずに仕事を続けてきた人の強さとやさしさを感じました。
ライター 齋藤真弓