「安心」と「笑顔」を患者さんに届けよう!
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医療法人 相雲会 小野田病院 看護部長
但野 圭子さん
タダノ ケイコ
Profile
1964年南相馬市原町区生まれ。高校卒業後、小野田病院に看護学生として採用され准看護師に。その後、松村看護専門学校(いわき市)に進学し正看護師の資格を取得。子育てと両立しながら30年にわたり内科・泌尿器科・訪問看護など多くのスキルを身につけてきた。2014年より現職。
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長く続けることで見えてくることがある
東京電力福島第一原発の事故があってから、南相馬市は高齢化が一気に進みました。若い世代が市外に流出し老老介護が増え、慢性疾患の患者さんを「安心して家に帰せない」ケースがしばしば見受けられます。
その一方で看護師不足は慢性化し、当院でも震災前の半分しか入院患者を受け入れることができません。約80人いた看護師は現在51人に減りました。さらに、当院は以前から看護師の平均年齢が高く、今後5年間で定年退職を迎えるスタッフが複数います。震災から6年近く経った今、若い世代の看護師が増えない中での「人材確保」は差し迫った深刻な問題です。当院は、「チームナーシングがうまく機能している」働きやすい職場であることから、勤続30年を超える看護師が少なくありません。私自身もその一人で、高校卒業後からずっとこの病院で育ててもらい、働いてきました。
しかし、二度ほど「辞めるしかない」と覚悟したことがあります。最初は35歳の時です。病棟主任になると同時に、初めて泌尿器科に配属され、任された仕事の責任と自分の力量のギャップに押しつぶされそうになりました。担当医の厳しい指導に応えきれず、かなり精神的に追いつめられたのです。それを乗り越えられたのは、やはり一緒に働くスタッフの励ましがあったからでした。しばらくして担当医が転勤になり、3年くらい経つと「あの時先生が伝えたかったのはこのことだったんだ」と、ふと気づくことがありました。もし辞めてしまっていたら、一生分からないままだったはずです。続けていて良かったと心から思いますし、先生の厳しい指導も今となっては感謝しています。
二度目は震災の時です。当院は原発から27kmの場所にあり、病院側からは「避難するかどうか職員自身が判断すること」と言われました。内科の病棟主任を務めていた私は当初避難するつもりは全くなく、「患者さんを置いて行くわけにはいかないから」と家族に伝えていました。そんな私に中学生だった娘は「避難したい」と正直に言えなかったんだと思います。娘の友だちのお母さんから「娘さんが不安になって泣いているよ。避難した方がいいよ」と電話があり、娘の部屋に入ると布団をかぶっていました。声をかけても反応がありません。静かに泣いていたのです。その姿を見て「どうしたものか」と迷う間にも、「避難しないの?」と心配する人から何度も電話が入りました。
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「ここで働いてよかった」と思える病院に
その時、私は「家族がいてこその仕事だ」と思いました。正確な判断ができない状況でも、娘を思うとその時点では「避難」という選択しかありませんでした。病院の状況が分かるだけに、心が苦しくて連絡をすることができませんでした。「もう病院には戻れない」、「看護師も辞めるしかない」と思いながら避難所に向かったのを覚えています。
福島市の避難所に落ち着くと「本当にこれでよかったのか」という思いが押し寄せてきて、今度は自分が布団をかぶって泣きました。浜通りの病院から患者さんが移送される様子がテレビで報道されていましたが、辛くてまともに見ることができません。それなのに、避難所にいると「看護師さんなの?具合の悪い人を見てもらえませんか?」と声をかけられたのです。「ごめんなさい、できません」とお断りしたのですが、「どうしても」と重ねて頼まれ行ってみると、そこには小野田病院に来ていた患者さんがいました。
「よかった!知っている看護師さんがいて」と喜ぶ患者さんとその家族の姿を見て複雑な気持ちになりましたが、その後は、頼まれるままに災害派遣の医師を手伝いながら避難所に3週間ほどいました。4月に入ると娘の学校も再開することになり、きちんと病院に挨拶して退職届けを出して区切りをつけようと南相馬市に戻りました。
戻ってすぐ市役所で院長にばったり会い、開口一番に言われたのが「どうしていたんだ。明日病院に来い」という言葉です。翌日、病院に行くとすぐ「訪問看護をやってほしい」と新しい仕事を依頼されて、退職届けは出せないままになってしまいました。しかも、当時の看護部長が来てくれて「大変だったね。元気でよかった」と心から喜んで私のことを受け入れてくれたのです。この時に「自分がやれることをこの病院でやろう」と気持ちが切り替わりました。
思い返すと3人の子どもたちが小さかった頃、みんなが次々に体調を崩し1ヵ月ほど仕事に行けなかったこともありました。その時も、看護部長をはじめ病院のスタッフは「無理しないで。待っているから」と声をかけてくれたおかげで、安心して職場に戻ることができました。そして「次は自分がフォローしよう」という気持ちになったものです。震災を経ても、当院には、お互いを認め合い助け合う職場の雰囲気があります。それを絶やすことなく、次の世代にもつなげていくことで「ここで働いていて良かった」と思ってもらえるような職場づくりが実現できるのではないかと思います。
避難している看護師の中には「あの日」のまま時間が止まってしまっている人もいます。もし、戻ってきてくれるのであれば、ぜひとも一緒に働きたいですし、これからを担う若い人たちにも、震災を経験したからこそ見えてきた「看護師という仕事の面白さ・やりがい」を伝えていきたいのです。私は超が付くくらいポジティブです。ですから、これからも「地域で必要とされる医療」の提供を絶対にあきらめない。いや、「あきらめたくない」と思っています。
取材者の感想
看護部の方針に、「安心と笑顔」という文字があります。「どんな状況でも患者さんに安心してもらい、笑顔になってもらえる関わりができるのが看護師です」と但野さん。震災後、訪問看護を通じて一人ひとりの患者さんにしっかり向き合ってきた経験に基づいた言葉です。「ありがとう、安心したよ」と言う患者さんの輝く笑顔には「看護師で良かった」と心をズンっと動かす力があったと言います。また、「チームワークで生活指導や運動などのアイディアを出し合うのも楽しく新鮮で楽しかった」と話しますが、現在、実は小野田病院に訪問看護部門はありません。
その理由は、やはり人手不足です。「不完全燃焼で終わってしまった」と残念がる但野さんは、いつか看護師の数が充足した時に「訪問看護の現場で再び働く」ことを、個人的な目標として掲げています。その実現のためにも、現在は看護部長の職務として、目の前にある課題「働きやすい職場」づくりに知恵を絞り続けているのです。
震災の時に布団の中で泣いていた娘さんは、高校を卒業し理学療法士になるために学び始めました。身近で見ていた母親の葛藤や避難所での看護などの様子に心を動かされ、「医療」を志したのだろうと想像するに難くありません。
時に迷い、もがきながらも「看護師でよかった」「続けてきてよかった」と繰り返し語り、前に進み続ける但野さん。その飾らない人柄が伝わる言葉の数々は、娘さんばかりでなく多くの若い人の心をも動かしそうな気がしました。
ライター